「ちくしょー! なんで俺ばっかいっつもビリなんだよぉお!!」
水泳の授業中、嘆き声のようなものがプールサイドにこだました。
「相変わらずBってばうるさいなぁ…」
本日の体育のメニューのひとつであるバタ足練習…の順番待ち最中。
同じクラスのCが、私の隣でため息まじりにつぶやいた。
「はは… でも陸上のときは常にトップ走ってるBくんが水泳は全然駄目なんて、意外」
「そういうあんたも、水泳はそこそこいいとこいってるのに陸上は……」
「うぅ…それは……。っていうか私はCの万能さがうらやましい」
「万能って……。そんなことないよぉ〜」
ほんの一瞬、男子の集まっているコースに目を向けてみた。
Bを始め、[泳げない](というか泳げても遅い)認定をされた生徒たちが、
先生の腕の動かし方をみて真似している。
「……素人泳ぎだね」
「あれ、Cも見てたんだ」
「男子の方の先生は教え方あんまり上手じゃないね」
「……小学校んときからスイミング通ってるベテランにそんなこと言われたら 先生はどう反応するのやら…」
笛の合図で勢いよく水を飛ばしながらバタ足している女子の背中が視界に入った。
早いな…もう私たちの番まで回ってきたのか。
私たちの学校の水泳の授業は さほど厳しくない。
(多分顧問が体育の先生だったら厳しくやってるかもしれないけど)
このバタ足練習が終われば、残り15分程度は自由時間になることが多い。
たまにテストとかやるときは 自由時間はなくなるけど。
「それだけ早く泳げるならいっそのこと個メやればいいのに…」
私は少し息を荒げながら 先に長水路の半分(25m)までたどりついたCに声をかけた。
「やんないよぉ…。あたしの専門はバックなの!」
「さいですか……」
そう言われるとフリー専門の私としてはちょっとヘコむんだけど…
でも経歴の差ってのがあるわけだし、それに何より私はキックが苦手だから…しょうがない。
(…いや、プルで勝負しても多分勝てないと思うけど。選手コースとやらでしごかれているベテランに敵うわけがない)
ふと、女子よりトーンの低いざわめきというかそういうのが聞こえて 私はまたそっちをチラ見してみた。
「あれ、珍しいね……男子も自由時間になってる」
「ホントだー」
スタートした側とは反対側の飛び込み台で待っている、本日の見学者さんにビート板の片付けをお願いして、
私たち2人はプールの真ん中の方へ折り返し始めた。
歩いているのか泳いでいるのか分からないぐらい、中途半端に漂いながら 私たちは今日の部活の話とかをしていた。
コースごとに全部設置されているコースロープで鉄棒まがいのことをしている女子。
水にもぐってじゃんけんか何かをしている男子。
逆立ちをしている人……
――とにかく思い思いの自由時間を過ごしていた。 …とても授業には見えない。
「おーい!女子ぃー!!」
「「!?」」
授業では 1〜4コースは男子、5〜8コースは女子といった感じでコース分けは一応されている。
見学者と先生以外は 4コースと5コースの間にある見えない壁をすり抜けようとする人は誰もいない。
いわゆる[暗黙の了解]というか、そういうやつなんだけど、
Bだけは、なんか違った。
女子の体育の先生は Bが冷やかしにでもきたのか…と思っているのか、なんだか微笑を浮かべている。
プールの男子側は相変わらず楽しそうにはしゃいでいるが、女子の方は一瞬で静かになった。
……むしろ[しらけた]と言ってもいいぐらいに。
一番近くにいたクラスメイトが、
「……B くん? どうした…の?」
とプールから見上げた。
口調的に、かなり動揺している。
「俺と50mクロールで勝負しろ! できれば速い奴と!!」
「「「えぇぇええ!?」」」
しばらくの沈黙の後、女子の甲高い悲鳴…のような声があがった。
「……こういうのってさ、確実にあたしたちに回ってくるんだよね」
「そりゃ水着が水着ですから」
皮肉めいたことをつぶやきながら、私たちは自分が思ったより冷静であることに気付かされた。
いちいち2枚水着を学校に持っていくのも面倒…ということで、水泳部員は基本的に競泳用水着のまま授業を受ける。
女子の水着なんかはスクール水着と全然違って、背中に穴があるから すぐにそれと分かる。
「水泳部員、集合っ!」
面倒ごとが自分たちに回ってこなかった安堵感が声にも出ているその召集コール。
私たちは顔を見合わせ、小さくため息をついた。
「ねぇねぇBくん、一番最近計ったタイムは?」
Bがいるプールサイドを見上げながら まずCが質問を始めた。
「……40秒」
「それって50mの?」
仮に25mで40秒かかってたらそれこそ[なんでそんな話持ち出したの!?]になるけど、
……50mで40秒っていうと、体育の女子だったらそこそこ速い方になる かな。
「せんせぇ! こないだのタイム、私たち何秒でしたっけー!?」
遠くの日陰でパイプ椅子に座って足を組んでいる、体育の先生を呼んだ。
先生は名簿がはさんであるバインダーを見ながら 大きめの声で私たちのタイムを教えてくれた。
「…Cは34秒、私は39秒……だってさ」
これであっさり諦めてくれるだろう…と私は微笑しながらBに伝えた。
「あ、ついでに言うと 昨日の部活で記録計ったときは37秒だったよ」
これは飛び込むか飛び込まないかの違い。スタートから壁を蹴って進むか、5m地点まで飛ぶかでずいぶん差がでる。
Cは昨日の部活には来てないからタイムを計ってないけど、飛び込めば多分32秒とか30秒とか平気で出すと思う。
「……」
「じゃ、そういうことで……
「待てよ」
「……はい?」
プールサイドに背を向けた私たち(特に私)を呼び止める、挑発してるような声が後ろから聞こえてきた。
温まったなんて生易しい言葉じゃ表現できないプールサイドに手をつければ、重力に逆らわず滴り落ちてくる水滴。
じりじり照り付けてくる太陽は雲さえもよせつけないようにも見える。
日向を歩く見学者が 普段以上に足を大きく上げながら小走りしてる様が 不謹慎にも少し笑えてきてしまったけど、
目の前で 足の下にあるコンクリートに悪態をつきながら足をバタつかせている男子には……あんまり笑えない。
「――で、なんでそこまでこだわるの?」
誰もがBにそう問いかけたそうな顔をしている。…私もそのひとり。
「俺のプライドが許さねぇから」
「…女子に勝ったってあんまり嬉しくはないんじゃ…」
事実、男子はバカにしたような視線を彼に向けている。
「っせーな! だから女子で速い方の奴選んでんだよ! ……オラ!分かったら4コース空けろ!!」
「あーあ…… ついでに5コースも空けてね」
運動場では常にトップで駆け抜けるB。
去年の体育大会の時は、本当の意味で[我がクラスのヒーロー]だったわけで、
やっぱりそういう…プライド?みたいなのがあるのかもしれない。
私だって、水泳やってない素人に負けるのは……ちょっと嫌かも。
「飛び込…まないよね、授業だもんね」
ついついクセで飛び込み台に片足を乗せてから そういえば……と気付いた。
「そ、そうだ! 授業じゃ危ねーからって飛び込み練習までやらされねーもんな!」
運動場のスタートラインに立つときのあの顔は 不覚にもカッコイイとか思わされるのに、
一瞬飛び込み台に足をつけたときのあの顔……まるで別人のような、ものすごいギャップ。
「C〜…どうするよ。負けたら私すっごい悔しいんだけど」
再びプールにゆっくり入った私は 6コースでコースロープにもたれかかって傍観していたCに声をかけた。
「……相手はあくまで男子だからいいんじゃない?」
水泳で身長が関係するかどうかはちょっと分からないけど、腕が長ければ水はかきやすくなるかも。
「っていうかなんでCのが速いのにCじゃないの?」
BにもCにも言うつもりで愚痴をもらしたら…
「おまっ……スイミング通ってるベテランに俺が勝てるわけがねぇだろ!?」
「だから、あたしの専門はバックなの。クロール勝負ならフリー専門が出なきゃ」
とほぼ同時に言われた。
私だって50mは専門外なんですが……。
「じゃ、いくぞー!」
私たちの騒動(?)を聞きつけて乗り気になったのは、男子の体育の先生。
6コースから向こうにいる女子は ほとんどが私を応援している。
3コースから向こうにいる男子は……冷やかし混じりもあって なんだか半々っぽい。
「用意…」
ほんの一瞬だけ、水の波紋が小さくなって……消えた。
ピッ
泳ぎなれてない人は 息継ぎが苦手…というのが多い。
息継ぎが少ないということは、水の抵抗が少なくてすむので 下手にこっちが2分の1で何度も呼吸してれば、
たかが1〜2秒の差。 …結果は見えてきてしまう。
ろくにけのびもせずに浮かび上がってきたかと思うと それはもうものすごい勢いでバタ足をしている。
Bの方なんか向いて呼吸したら、鼻どころか気管に水が入りそう……。
左で呼吸するせいで Bがどの辺りにいるのかが全然見えない。
ギャラリーがだいぶ減ってきて……真ん中の赤いラインを通り越した……
呼吸数を減らして 右にいるはずのBを目だけ動かして見てみた。
……
やばい……指1本分ぐらい抜かれてる…………
相手が失速したのか、こっちが加速したのかは分からないけど、
今度はこっちが指1本分…いや、手の分だけ引き離した。
スタートのときに比べて勢いがなくなってるのは、Bだけじゃない。多分私も。
そのくせに100とか200とかは 前半は疲れない。
この違いは何なんだろう?
いや、今はそれどころじゃない。
最後の赤いラインを通過……
どうする……また追いつかれそう……っ!!
バシャッ
一息ついて見上げると さっき号砲を出した先生が、顔をしかめながらストップウォッチを見ている。
相当気合い入れて泳いだのか、声も出ずにぜえぜえとあえいでいるBの代わりに、
「何秒……でしたか…?」
と先生に聞いた。…私も声がかすれてるということは 結局本気で泳いでたみたい。
「俺が押し間違えてなければ……」
「Bのが…………遅かった」
勝った…
勝ったんだ… ……
私は大きく安堵のため息をつくと、先生にストップウォッチを見せてもらうよう頼んだ。
「「え……」」
手渡されたストップウォッチを Bも覗き込んだ。
「れっ…0.4秒差ぁ!?」
その瞬間から、私は 今よりもっとマジメに部活に取り組もう と本気で思った。